ケツトジャーナル

水分計の普及が早ければ、寿司の姿は変わっていた?

    • 米ラボ

今回は、寿司と水分計のお話です。

ケツトの最初の穀類水分計「P-1型」は、1950(昭和25)年に開発されました。当初は食糧事務所への納入がありましたが、全国的に広く普及することはありませんでした。

最初の穀類水分計「P-1」

当時の日本は、戦争の影響もあり食糧難だったため、主食の米を海外から輸入し、配給していました。1951年から翌年にかけビルマ(当時・現ミャンマー)からの輸入米にカビが発生し、米が黄色く変色していました。有毒の黄変米です。その後も輸入米には黄変米の混入が見られ、配給に回すべきか否か、国会で侃侃諤諤の論争がありました。

時を同じくして、当社の米麦水分計が台湾で使われ始めました。最初の水分計の輸出は1954(昭和29)年です。収穫後の米を乾燥させる際に、水分を測定・管理することでカビの発生が抑えられるため、輸出入に際しての品質管理には水分計が有効であることを台湾では知られていました。

当時、台湾の輸入米からはカビが見られないことを日本の食糧庁が突き止め、台湾の農務局長に事情を尋ねたところ、日本のケツト米麦水分計による水分管理の成果を説明されたそうです。

その後1956(昭和31)年、日本でもケツトの米麦水分計による米の水分測定が正式採用され、現在に至ります。

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国が黄変米の対応に右往左往していた当時、米は配給されていたにも関わらず、誰もが外食できるようにと東京すし組合が尽力して、全国で寿司店の営業を認めさせました。

それまで伝統的な江戸前にぎり寿司には粕酢(赤酢)を使っていました。現在では赤酢のにぎりはこだわりの逸品というイメージがありますが、黄変米が禁忌されていた当時、褐色の寿司が黄変米ではないのかという疑いをかけられることがありました。物資不足も相まって、寿司の酢は、粕酢から白酢に代わっていきました。

江戸前伝統の赤酢の握り。黄変米ではないかという誤解が生じた。

今、わたしたちが思い浮かべる寿司の姿(白いシャリにネタが載ったもの)は、黄変米発生が一因となっているのです。

つまり、ケツト水分計の国内普及が早ければ、黄変米はすぐに鎮静化し、江戸前寿司も伝統の粕酢を使ったシャリで握っていたのかもしれません。

我々が思い浮かべる寿司の姿も、褐色のシャリが当たり前になっていたのかもしれませんね。

ライター:K.OKAWA

参考資料:『明日も青春』明日も青春編集委員会(1985, ポプラ会・非売品)/mizkan 江戸の握りずしブームと粕酢(https://www.mizkan.co.jp/story/change/01.html